支那事変 概説3
 The China Incident


===== 徐州作戦の背景 =====

南京攻略のころ、日本は大陸に16個師団、約60万の大軍を送り、連戦連勝を誇ってはいたが、支那側には依然として屈伏の気配はなかった。参謀本部では満州の防衛強化を熱望し、かつ長期の戦闘からくる軍紀のみだれを懸念するようになった。このため昭和13年2月16日の大本営御前会議で、戦面不拡大、積極的な大作戦を行わず。現占領地の治安維持、新政権育成に専念する方針を決定した。しかしこの決定の推進者、参謀本部作戦課長河辺虎四郎(24)に代わって対支作戦に積極的な稲田正純中佐(29)が就任、さらに間もなく発生した台児荘の戦闘で、戦面不拡大の方針を一擲、いま一度大作戦を推進し、事変解決の機会を求めようという機運になった。

===== 台児荘の戦闘 =====

北支那方面軍の第2軍(司令官 西尾寿造中将)は中央の許可を得て、昭和13年3月13日 第10師団の瀬谷支隊(瀬谷啓少将)と第5師団の坂本支隊(坂本順少将)に前進して付近の支那軍撃破を命じた。これが大運河の線に進出したところで、予想以上の支那軍の大部隊の攻撃を受け苦戦に陥った。3月27日 瀬谷支隊(歩兵6個大隊、野砲兵3個大隊)はようやく台児荘に突入し、沂州を攻撃中の坂本支隊も台児荘に増援したが、支那軍の抵抗は強く戦況は進展しなかった。さらに両支隊間相互の連絡が悪く、坂本支隊は師団命令で他に転進するとの報によって瀬谷支隊は4月6日夜、坂本支隊は4月7日 それぞれ台児荘を撤退した。支那軍は「台児荘の勝利」と大々的に宣伝し、士気を高め戦意を向上させた。また支隊長瀬谷啓少将(22期)はこの後予備役に退いた。

しかし敗退というのは支那側の誇張であった。真相は瀬谷支隊が台児荘攻略を完了しないうちに占領したものと誤認した隣接友軍・坂本支隊が転進するとの報に接し、連絡不十分のためやむなく瀬谷支隊も反転したもので、決して撃退されたものではなかった。

===== 徐州会戦 =====

日本軍の中央部もこの地域に優勢なる支那軍が集中していることを知り、これを南北から挟撃、一大打撃を与えて支那軍の抗戦意志を喪失させる好機と判断し、4月7日 北支那方面軍、中支那派遣軍が協力して行う徐州作戦の命令を下した。この作戦の目的が、

1) 徐州を占領して津浦線を打通することにあるか
2) 支那軍の撃破にあるのか

が問題となったが、支那野戦軍の撃破が主で、徐州の占領はその結果である、という認識で統一された。また、この翌年に実施予定であった漢口作戦の繰上げ実施も検討していた大本営は、4月中旬から5月末にかけて作戦部長橋本群(20)少将以下を「大本営派遣班」として現地に派遣、北支軍と中支派遣軍の調整にあたらせることとした。

北支方面軍は4月下旬から、中支那派遣軍は5月5日ごろから行動開始、南北呼応して支那軍の退路を断つように分進合撃、徐州西方地区で5月15、16日頃包囲網が完成した。しかし総計約50個師の支那軍は、南西方向に包囲の間隙を突破、脱出した。直径百数十Kmの大平野で、日本軍はわずか7個師団余で、3倍程度の支那軍を包囲、捕捉しようとしても、網の目が大き過ぎて包囲・撃滅戦にはならず、戦果は意外に少なかった。 支那兵は数百名が一団となって隊列を乱して敗走し、飛行機を見るや馬も車も放棄して麦畑の中に隠れてしまう。 実際に日支両軍で激戦といえるものは、上述の台児荘付近での1ヶ月にわたる戦闘がその主体であり、その他は「徐州、徐州と人馬は進む」の歌どおり、機動と行軍の連続であった。日本軍は5月17日、18日追撃命令を発し20日徐州を占領したが、支那軍は6月12日、黄河の南岸堤防を自ら破壊、大洪水を発生させ日本軍の前進を完全に停止させた。

本作戦の追撃段階で、第1軍司令官(香月清司中将)は隷下第14師団(師団長 土居原賢二中将)を徐州作戦に協力させるにあたり大本営命令に基づく北支那方面軍命令を無視し、蘭封付近の要所を占領するように命じた。このため第14師団は第2軍の指揮下に移され第1軍司令官は罷免され、7月30日付で予備役編入となった。

===== 武漢作戦の背景 =====

本作戦は広東攻略とともに支那の諸要衝を占領し、蒋介石の死命を制し、これを屈伏させようというもので、参加兵力は第11軍、第2軍 計9個師団約30万人を超えるものであった。対する支那側の防衛兵力約60万に比較すると十分な兵力とは言えなかったが、支那事変中最大規模の作戦であった。 昭和13年初頭、戦面不拡大、軍備拡充を方針として陸軍予算を38億2000万円としたが、これを遥かに超え、新たに40万人の増員、24万人の新設部隊、軍需32億5000万を必要とするといった国力を傾けての大作戦で、これに伴い国家総動員法、同関連法は同年4月1日公布、5月5日から施行され、また5月下旬近衛内閣を改造し、政府として事変解決に新たなる意欲を見せていた。

大本営は昭和13年6月18日 漢口攻略準備を命令、中支那派遣軍は揚子江及び准河の正面で逐次西方に地歩を占め、作戦を準備した。大本営は、徐州作戦の目的が明確ではなかったことに鑑み、この作戦は要地武漢の占領であること、及び主作戦を海軍と協同し補給面でも容易な揚子江に沿う正面と明示した。作戦発起を和平工作との関連及び収穫期を控えた9月上旬と規定した。攻略作戦準備として、海軍の協力で第11軍の一支隊を揚子江を遡らせ、7月下旬から8月上旬にかけて九江及びその北岸の黄海を占領地歩の拡大に努め、また第2軍主力も盧州付近に終結した。

===== 武漢作戦 =====

ソ連と満州との国境紛争である張鼓峰事件を解決した大本営は8月22日、中支那派遣軍に漢口付近の要地の攻略、占領、この間なるべく多くの敵の撃破、及び漢口占領後、占領地域を努めて緊縮することを命令した。

作戦は海軍の協力を得て揚子江両岸を進む第11軍(司令官 岡村寧治中将)と、これに策応する第2軍(司令官 東久邇宮稔彦王中将)によって8月下旬から開始された。
第2軍の前進は大別山系北方を迂回する第3、第10師団と、大別山系を横断する第13、第16師団の2路をとり、支那軍の抵抗、徹底的な道路破壊、多数の河川、険峻な山地での困難な補給、疾病の流行、炎暑、多雨といった困難を克服、ほぼ2ヶ月をかけ漢口北方に進出した。
一方第11軍では揚子江北岸を第6師団が数線陣地の支那軍を逐次撃破して広済を占領、その後黄海−広済の間で優勢な支那軍の攻撃を阻止撃退し、かつ有力な一部を田家鎮に派遣、これを攻略した。

揚子江南岸では第101、第106師団が南方への地歩拡大に努めていたが、支那軍の抵抗で1ヶ月以上戦況は進展しなかった。おくれて九江付近に集結した第9、第27師団は、九江−瑞昌を経て武漢に向って進攻を始め、9月15日要衝馬頭鎮を陥として西進、10月25日漢口南方で粤漢線を遮断、北岸を前進した第6師団も10月17日から追撃にうつり、10月25日漢口東端に達した。支那軍は同日市内から撤退し漢口は陥落した。大本営は漢口占領翌日、進出限界線を示し、これに基づき第9師団が11月11日岳州を占領して武漢作戦を終わった。

武漢作戦での戦果と損害
  戦 死 戦 傷 遺棄死体 俘 虜
第2軍 2300 7300 9600 52000 2300
第11軍 4506 17380 21886 143500 9600
総 計 9500 26000 35500 195500 11900

他に病院収容患者は第2軍のみで25000名、病死900(コレラによる病死300)にのぼった。

広東作戦図

===== 広東作戦 =====

広東・香港地区は支那側の重要な策源であり、諸外国の援助を含めその約8割を供給するもので、我が軍としてはこれを攻略し戦争終結の契機としたいところであった。漢口、広東攻略の機にできれば事変の終結をつけるための工作を進めていたが、そのための作戦的効果を大きくするためにはなるべくこの両作戦を同時に実施することが望ましく、漢口作戦開始の8月下旬にいよいよ広東作戦も並行して行うこととなった。
武漢作戦の目途と船舶の都合がついたところで大本営はこの作戦の実行を決意し、昭和14年9月19日 第21軍(軍司令官 古荘幹郎中将)を編成、第5艦隊(司令長官 塩沢幸一中将)と協同し、広東付近要地の攻略を命令した。 当時その方面の防衛に任じた支那軍第4戦区の兵力は正規軍13個師で、配備の重点は広東付近であり、一部をもって福建省と広西南西沿岸を警備していた。 第21軍は馬公に集結、乗船、第5艦隊の護衛のもと、10月12日バイアス湾に奇襲上陸広東にむかって進撃、漢口占領の5日前の10月21日には広東を占領した。 作戦は急襲的に行われたため支那兵は戦意を喪失し、我が損害は極めて少なかった。

広東作戦での戦果と損害
陸軍参加兵力 戦死者 戦傷者 俘 虜
約7万人 173 493 1340


       支那事変4/南寧作戦 海南島作戦 中共の戦略 援蒋ルート 米英ソとの関係 など