サンドイッチ諸島の発見 

ハワイアンの先祖は、紀元5〜6世紀の頃、ポリネシアの島々のマーケーサス諸島や、ソサエティー諸島から双胴カヌーでハワイへ渡ったと言われていますが、くわしい事は解っていません。ハワイ諸島が西洋の人々に知られるようになるのは18世紀後半に、ジェームスクックが太平洋航海中にハワイ諸島を発見してからです。

1776年7月、イギリスの探検家、ジェームス・クックは、”リゾリューション号”と、”ディスカバリー号”の2隻を率いてプリモス港から3回目の太平洋航海へ出航しました。この航海の目的は、南太平洋の再調査と未調査海域の探検でした。タヒチを経て南太平洋から北上してきたクックは、1778年1月18日オアフ島を発見しました。19日にはカウアイ島のワイメア湾に到着。20日には短時間でしたが上陸しました。しかし、北アメリカ西海岸から大西洋に抜ける海峡の有無を確認する任務にあったため、この島々を航海のスポンサーだったサンドイッチ卿にちなんで”サンドイッチ諸島”と名付け、アメリカ西海岸に向け航海を続けました。クックは船の修理と乗員の休息のためこの年の11月に再度ハワイを訪れました。しかし悪天候のため上陸できず、マウイ沖に到着してから8週間の間マウイ島とハワイ島の間を巡航した後、1779年1月17日にハワイ島のケアラコクア湾に上陸しました。ちょうど収穫の祭り”マカヒキ”の最中に訪れたため、島民はクックを農耕の神”ロノ”の再来と信じ手厚くもてなしました。
3週間後、船の修理や、物資の調達を済ませ出航します。しかし4日後 リゾリューション号のマストが折れ、ケアラコクアに戻りました。2月14日、数名の船員と共に上陸したクックは、島民に捕らえられ、何本もの短剣を突き立てられて惨殺されてしまいました。理由は、部下が誤って酋長の一人を殺してしまった為とも、島民が”ロノ”神の報復を恐れた為とも、ハワイでは航海の挫折は凶運とされていて、クックが”ロノ”神でないことを島民が悟ったためとも言われています。

ハワイ王国統一  

1758年にハワイ島、コハラに生まれたカメハメハ大王は、生誕の前から王者になることを予言されていたと言います。当時のハワイ諸島では内乱が絶えませんでしたが、カメハメハ大王は際だった手腕と英知でハワイ島の統一を成し遂げました。カメハメハ大王は、1791年にカワイハエ湾の丘にプウコハラ・ヘイアウ大神殿を建立し、1794年までにマウイ、モロカイ、ラナイの島々を、1795年にはオアフを制圧し、「戦いの神”ク”の為に大神殿を建立すれば全島を征服できる」と言う予言を現実としたのでした。 
そしてその年、マウイ島のラハイナを首都と定め、カウアイ島を1810年に盟約の形で迎えて全島を統治下に置きハワイ王国を築いたのでした。

クックの航海に同行したディスカバリー号の船長バンクーバーとカメハメハ王との間には逸話があります。ディスカバリー号はクックの死から13年目の1792年に貿易交渉のために再びハワイを訪れました。このときバンクーバーはハワイ統一途上のカメハメハ酋長と会見しました。クック上陸の際に会ったことのある2人は友好を深め、カメハメハはイギリス国王ジョージ1世に贈る羽毛製ケープをバンクーバーに託し、バンクーバーは牛や羊を贈ると同時に、10年間は消費せず、増畜する用にとアドバイスを与えました。 その後もカメハメハは西欧諸国からの訪問客 との接触を保ち、西欧文明の利点を積極的に取り入れましたが、古来からの伝統や神事も重んじたので、臣下の信望も厚かったと伝えられています。
この頃、太平洋の他の島々がヨーロッパ諸国の植民地になったのに反して、唯一ハワイだけが、この後約100年間、独立王国として存続しえたのは、地理的な条件に加え、カメハメハ大王の時代に対する柔軟性と世界情勢を把握する深い洞察力、そして英知と強力な統率力に寄与するところが大きいでしょう。

カメハメハ大王亡き後のハワイ王国  

1819年、カメハメハ大王の死後、長男のリホリホがカメハメハ2世として即位しました。ハワイには古くから社会秩序維持の為のタブー制度がありました。リホリホは古代ハワイ宗教に則って厳しく守られていたそれを廃止しました。そして大王の死の翌年1820年、偉大な指導者を失って混乱の時期にあったハワイにボストンから最初のキリスト教宣教師団が来島し、その後わずか20年の間にハワイはキリスト教国として認められるまでになるのです。

キリスト教の伝来とともに、カメハメハ2世の時代には、学校の設立、新聞の発行など文化面でも発展が見られます。同時に砂糖キビ農園の開発、捕鯨基地の設置、そしてこれらを基礎とした商業や貿易の拠点としてハワイが欧米の経済機構徐々に組み入れられていったのです。1842年には、新憲法発布により立憲君主国として、世界から承認され、さらに1843年にハワイ政府は、首都をラハイナからホノルルへ移しま した。経済の発展と共に欧米の資本家たちの勢力はわずか数十年の間に、王政を脅かすまでなるのです。

ハワイ王国の崩壊  

王国議会選挙よってカラカウア王が即位したのはカメハメハ大王の血統が5世で途絶えた2年後の1874年のことでした。このときの主な議会閣僚はすでに白人でしめられていました。ハワイ王朝100年の間に8人の王が即位しましたが、訪日したことがあるのは、このカラカウア王唯一人です。1881年3月オーシャニック号で日本を訪れたカラカウア王の表向きの訪問目的は、日本人移民再開の嘆願でした。

アメリカの南北戦争の影響もあってさらに発展したハワイの砂糖産業は当時深刻な労働力不足に悩んでいたからです。ハワイの移民の受け入れは1856年中国人移民に始まり、1868年には日本からも148人がホノルルへ渡りましたが、その後は途絶えたままだったからです。
この理由とは別に、カラカウア王には別の目的がありました。それは王位継承権を持つ姪、当時まだ5歳であったカイウオラニ王女と山階宮の 婚姻で、この婚姻関係により皇室の、しいては日本国の力添えを得て、ハワイ王国の崩壊を防ぐ為だったといわれています。しかし、王の望みは叶えられず、王の後を次いだリリウオカラニ女王は1893年、白人たちによるクーデターにより幽閉され、さらに王位を剥奪されて、ついにハワイ王朝は崩壊を迎えるのです。1898年8月12日、ハワイは正式にアメリカ合衆国の領土となり、第二次世界大戦を経た1959年、時の大統領のアイゼンハワーの布告署名によりアメリカ第50番目の州となりました。